1080年祭
特別コラム

開基1080年祭を記念して2015年よりはじまりました歴史家 安藤優一郎のよる連載企画。
江戸時代の成田山出開帳の足跡を辿ります。

成田不動尊 江戸出開帳 ゆかりの地を訪ねて

千住宿・其の1

江戸時代、成田山は将軍のお膝元の江戸で何度となく出開帳を執り行いましたが、三泊四日の行程で江戸に入るのが常でした。不動明王を納める厨子だけでなく、仏事に必要な諸道具を運ぶ人員も合わせると、総勢130人ほどの人数で成田山を出立しています。そして、一行は日光(奥州)街道千住宿で江戸入り前夜を迎えます。
今回より12回シリーズで、文化3年(1806)時の出開帳をもとに、深川永代寺の開帳場に不動明王が入るまでを追ってみましょう。
この年の2月17日、永代寺に向かって出立した成田山一行は、成田街道と呼ばれた道を西に進み19日に千住宿に入ります。千住宿まで来れば、江戸はもうわずかでした。
江戸への出入り口は主に4つありました。東海道、中山道、甲州街道、そして日光(奥州)街道のいわゆる五街道です。その最初の宿場である4つの宿場は江戸四宿と呼ばれ、千住宿はその一つでした。
江戸四宿のなかで最大の規模を誇った千住宿では、のべ2キロ以上にわたって街並みが広がっていました。この頃は総軒数が2000軒余、人口も9000人を越えていました。宿内には大名や幕府の役人が専用に泊まる本陣と脇本陣が1軒ずつ置かれ、旅籠屋も55軒を数えました。
不動明王は千住宿入口の安養院に安置されましたが、千住宿では勝専寺に安置されるのが先例でした。ところが、当時住職は大病であった上に、安養院からのたっての願いもありました。よって、今回は安養院に変更されたのです。
同行していた貫首照誉は本陣に宿泊しました。そのほかの者たちは、各旅籠に分宿したようです。

千住宿・其の2

いよいよ、江戸入りの日がやってきました。文化3年(1806)2月20日のことです。
早朝より、千住宿には江戸から町奉行所の同心が22名、同心の手下である岡っ引きが30名もやって来ました。彼ら町奉行所の役人たちは、成田山一行が千住宿から永代寺に入るまで行列に同行することになっていたのです。
成田山を出立した時、一行の人数は130人ほどでした。しかし、千住宿まで来ると、出迎えの成田講の人々が江戸から大勢駆け付け、行列の人数に加わっていきます。そのため、永代寺に到着する頃には総勢1000人もの人数に膨れ上がりました。
ここまでの大人数になると統制が取れなくなり、永代寺に向かう途中で、不慮の事故も起きかねません。よって、江戸の治安を預かる町奉行所から同心が派遣され、開帳場まで同行したのです。出役してきた同心たちに、成田山では金銭の心づけや昼御飯も用意しています。
午前8時、成田山一行が千住宿を出立します。しばらく進むと、前方に大きな橋が見えてきました。今も隅田川に架かる千住大橋です。
千住大橋は、江戸時代以前の文禄3年(1594)に徳川家康の家臣伊奈忠次により架橋されました。長さは約120メートルで幅は約7メートルでした。その後、江戸時代に入ると隅田川にいくつもの橋が架けられます。永代寺近くの永代橋もその一つでした。
千住大橋の手前にある伊勢屋庄次郎という商家で、不動明王を納める厨子はいったん安置されます。成田山を厚く信仰する商人だったのでしょう。
そして橋を渡ると、やがて道は二つに分かれます。浅草に向かう道と三ノ輪に向かう道です。成田山一行は三ノ輪に向かう道を進んでいきました。

吉原

現在は都電荒川線の終点駅がある三ノ輪(蓑輪)に向かった成田山一行は、道を日本堤の方角に取ります。向かった先は、江戸一番の盛り場である吉原でした。ちょうど、浅草寺の裏手に当たります。
吉原の入り口には、大門と呼ばれた門がありました。吉原は堀で囲まれており、大門が唯一の出入り口になっていました。
その門前で、輿に乗せられた不動明王が休憩します。吉原で商売をしていた遊郭の主人たちも成田講を結成しており、その要望に応えて立ち寄ったのです。こぞって不動明王を拝んだことでしょう。
天保4年(1833)時の出開帳の事例を踏まえると、行列に加わった成田講の人々には日本堤で赤飯が振る舞われています。日本堤は浅草から吉原に向けて走る山谷堀に沿って築かれた土手で、吉原に向かう誘客は日本堤を経由して大門に向かうのが定番コースでした。
この土手沿いには、誘客相手に商売する茶店が立ち並んでいました。茶店では成田からやって来た一行にお茶が振る舞われましたが、赤飯や御茶を振る舞ったのは吉原の成田講の人々でした。
わざわざ道を変えてまで成田山一行が吉原に立ち寄った理由とは何でしょう。遊郭の主人たちから成る成田講からの要望のほか、江戸出開帳のPRという大きな目的があったのではないでしょうか。吉原と言えば、江戸の歓楽街のシンボルであり、昼も夜も誘客で賑わっていました。
成田山の出開帳情報が、吉原の誘客を通して口コミで江戸の町に広まっていくのを期待したのです。

浅草八幡社

吉原を出た成田山一行は浅草寺を横手に見ながら、現在の台東区蔵前に向かいます。時間は正午近くになっていました。
当時は蔵前という町名はなく、俗称でした。この辺りは、隅田川に沿う形で「浅草御蔵」と呼ばれた幕府の米蔵が林立していました。そこで、蔵が立ち並ぶ地域が蔵前と称されるようになったのです。現在では町名だけでなく、地下鉄の駅名にもなっています。
蔵前駅の近くに蔵前神社が鎮座しています。5代将軍徳川綱吉が京都の石清水八幡宮を勧請した社で、江戸時代は「石清水八幡宮」「浅草八幡」と呼ばれていました。蔵前神社という社名になったのは、戦後に入ってからです。
この神社は回向院や深川の富岡八幡社とともに、江戸の勧進相撲の興行場所としての由緒を持っています。そうした歴史に基づき、境内には財団法人大日本相撲協会から奉納された石碑や玉垣があります。
古典落語の題材にも取り上げられたほど、江戸では著名な神社でもありました。「元犬(もといぬ)」と「阿武松(おうのまつ)」の二話です。
隣接する真言宗の寺院大護院が別当として八幡社を管理していましたが、天保12年(1841)に、幕府の指令により日本橋にあった成田不動(成田山御旅所)が境内に移されます。そのため、以後の江戸切絵図をみると八幡境内に「別当大護院」とともに「成田不動」の文字が見えます。
成田山一行は大護院で御昼を取りました。近隣の浅草福富町の名主永野又次郎という者が200人分のお弁当を仕出ししています。お弁当代ですが、貫首照誉はじめ一行の上層部10人ほどは銀1匁5分、そのほかは銀5匁だったそうです。

蔵前商人

江戸時代、成田山は将軍のお膝元の江戸で何度となく出開帳を執り行いましたが、三泊四日の行程で江戸に入るのが常でした。不動明王を納める厨子だけでなく、仏事に必要な諸道具を運ぶ人員も合わせると、総勢130人ほどの人数で成田山を出立しています。そして、一行は日光(奥州)街道千住宿で江戸入り前夜を迎えます。
今回より12回シリーズで、文化3年(1806)時の出開帳をもとに、深川永代寺の開帳場に不動明王が入るまでを追ってみましょう。
この年の2月17日、永代寺に向かって出立した成田山一行は、成田街道と呼ばれた道を西に進み19日に千住宿に入ります。千住宿まで来れば、江戸はもうわずかでした。
江戸への出入り口は主に4つありました。東海道、中山道、甲州街道、そして日光(奥州)街道のいわゆる五街道です。その最初の宿場である4つの宿場は江戸四宿と呼ばれ、千住宿はその一つでした。
江戸四宿のなかで最大の規模を誇った千住宿では、のべ2キロ以上にわたって街並みが広がっていました。この頃は総軒数が2000軒余、人口も9000人を越えていました。宿内には大名や幕府の役人が専用に泊まる本陣と脇本陣が1軒ずつ置かれ、旅籠屋も55軒を数えました。
不動明王は千住宿入口の安養院に安置されましたが、千住宿では勝専寺に安置されるのが先例でした。ところが、当時住職は大病であった上に、安養院からのたっての願いもありました。よって、今回は安養院に変更されたのです。
同行していた貫首照誉は本陣に宿泊しました。そのほかの者たちは、各旅籠に分宿したようです。

浅草橋

成田山一行が4人の蔵前商人宅に立ち寄った際には、不動明王を納める厨子を載せた輿も店の中に入ります。成田講のメンバーでもある商人や店の者から拝礼を受けた後、相応のもてなしも受けたことでしょう。
浅草瓦町に店を構える伊勢屋四郎左衛門宅を出ると、成田山一行は現在の国道6号線(江戸通り)をさらに南下して浅草橋へと向かいます。浅草橋は神田川に架かる橋の1つで、町名のほか都営地下鉄浅草線の駅名になっています。
井の頭池を水源とする神田川は神田上水とも称され、多摩川の羽村から取水した玉川上水とともに江戸の人々の貴重な飲料水でしたが、江戸城を守る役割も担いました。江戸城を守る外堀としての機能も兼ね備えていたのです。
幕府は江戸城の北を守るため神田川沿いに幾つもの橋を架けましたが、戦略上重要な橋には城門も併設しました。小石川御門、筋違御門そして浅草御門です。浅草橋に併設された城門が浅草御門だったというわけです。
浅草御門は江戸城を守る城門の1つですから、そこには門番が詰めていました。門番といっても大名です。江戸城には30以上の城門がありましたが、幕府は諸大名に門番という形で警備を命じていたのです。ただし実際に詰めたのは、その家臣たちでした。
迎えの成田講の人々が江戸から大勢駆け付けたこともあり、この頃になると成田山一行の人数は数百人にも膨れ上がっていました。これだけの人数が城門を通過するとなると、事前の許可が必要です。そのため、成田山では前日に届書を提出しています。

日本橋の問屋街

浅草御門を通過した成田山一行は、神田川に架かる浅草橋を渡っていきます。井の頭池を水源とする神田川も浅草橋まで来ると、終わりが近くなります。大川という別称を持つ隅田川に合流するからです。
浅草橋の東に柳橋という橋が架かっていますが、神田川に架かる橋では一番東にあたります。江戸の頃、この辺りには料亭や船宿が多数立ち並んでおり、柳橋と言えば江戸の花街の代名詞でした。成田講の主要メンバーだった蔵前商人たちが豪遊した歓楽街でもありました。
浅草橋を渡ると、名実ともに江戸の中心である日本橋地域に近づいていきます。成田山一行は現在の中央区東日本橋、日本橋横山町の辺りから日本橋に向かうことになります。
当時は、横山町、馬喰町などの商人町が広がっていました。都営地下鉄新宿線の駅名「馬喰横山」にその名残りが見受けられます。
江戸の成田講に「横山町講中」がありました。横山町の商人たちで構成された講中です。
今も江戸も横山町界隈は問屋街として知られており、蔵前商人と同じく物心両面で成田山を支える裕福な商人たちが店を構えていました。
隣接する馬喰町は、宿屋街としての顔も持っていました。公用・私用問わず、地方から江戸にやって来た旅行者を宿泊させる旅籠屋が集中していたからです。馬喰町の旅籠屋には、地方から商用でやって来る者も大勢泊まっていました。
日本橋は名実ともに江戸を代表する商人町だったわけですが、蔵前商人の場合とは違って、成田山一行が立ち寄ったのは1軒のみでした。その商人とは誰だったのでしょうか。

江戸の大店越後屋

日本橋地域は深川や蔵前と並んで、成田山を支える裕福な商人が軒を連ねていましたが、永代寺に向かう成田山一行が立ち寄ったのは駿河町に店を構える越後屋八郎兵衛宅だけでした。越後屋は江戸の代表的な呉服店として知られ、現在も同じ場所に三越百貨店という形で店を構えています。
伊勢出身の越後屋が江戸で呉服店をはじめたのは、延宝元年(1673)のことです。時に4代将軍徳川家綱の治世下で、三井八郎兵衛高利が現在の日本橋本石町にあたる本町に呉服店「越後屋」を開きました。三井家は代々三井越後守を名乗る武士でしたが、高利の父の代に商人となりました。
初代高利は画期的な商売方法を生み出し、越後屋を江戸の代表的な呉服店に発展させます。「現金掛値なし」などの商法はその象徴です。掛売をしない代りに掛値もせず正札で販売することで、店の信用を高めるとともに業績を著しくアップさせることに成功しました。
その後、貨幣の両替のほか金銭の貸付・手形振出しなどの業務を行う両替屋も駿河町に開きました。現在の三井住友銀行の前身です。そして、本町の呉服店も駿河町に移転させ現在に至っているわけです。
不動明王を納める厨子を載せた輿が越後屋に入った際、三井家ではどのような対応を取ったのでしょうか。天保4年(1833)時の出開帳の事例をみると、不動明王にお神酒を供え、貫首はじめ成田からの一行には膳部を出し、江戸に入ってから行列に加わった講中の面々には赤飯を振る舞いました。数百人分ですから、まさに大判振舞いです。文化3年(1806)時の出開帳でも同じ光景が見られたに違いありません。
こうして、越後屋による豪勢な振舞いとともに成田山の出開帳情報も江戸中に広まっていったことでしょう。

江戸の船手組

越後屋を出た成田山一行は、日本橋川を右手に見ながら隅田川の方角に向かいます。日本橋川は隅田川とともに、江戸の物流を支える主要水路でした。
日本橋川に架かる日本橋は五街道の起点であると同時に、その袂には魚市場を抱えていました。日本橋の魚市場と言えば、一日に千両もの取引があったと称されるほどの活気をみせた場所でした。
日本橋川に沿って隅田川に近づいていくと、御船手組の屋敷が現れます。町名でいうと、北新堀町です。現在の中央区日本橋箱崎町に当たります。
御船手組とは幕府が所有する船を管理する部門で、そのトップである御船手頭は向井将監という旗本でした。その下に船の運航に携わる大勢の同心や水主たちが付属しました。同心と水主合わせて約400人を越えていたそうです。彼らの居住する屋敷がこの北新堀町にあったわけです。
幕府は大小合わせて約60隻の船を所有していました。最大の船は将軍が乗船する御座船で、江戸湾を遊覧しながら「浜御庭」まで出掛けるのが楽しみだったと伝えられます。現在の浜離宮恩賜庭園のことです。
不動明王を納める厨子を載せた輿は、この北新堀町の御船手組屋敷にも入っていきます。船手組の同心や水主たちにも厚く信仰されていたことがわかりますが、立ち寄ったのはそれだけが理由ではありません。
北新堀町の御船手組屋敷を出ると、いよいよ成田山一行は開帳場の永代寺が鎮座する深川に向かうことになっていました。深川に向かうには隅田川を渡る必要がありましたが、その際、立ち寄った御船手組の面々の世話になるのです。

永代橋

早朝に日光街道千住宿を出発し、御昼を蔵前で取った成田山一行でしたが、開帳場の深川に近づく頃、既に時刻は夕方近くになっていました。この頃になると、成田山一行の人数は江戸の成田講の面々も加わり、1000人近くにも達していたでしょう。
北新堀町の御船手組屋敷を出ると隅田川はもう目の前です。永代橋を渡って深川に入ることになっていましたが、この橋は元禄9年(1696)に架橋されました(同11年(1698)という説もあります)。全長約200メートルの橋でしたが、現在の永代橋は当時よりも下流に架かっています。
この頃、隅田川にはあまり橋は架かっていませんでした。北から、千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋の5つだけです。当然のことながら橋の交通量は激しく、その重みで橋が崩れ落ちることも珍しくありませんでした。
ですから、大人数に膨れ上がった成田山一行に加え、不動明王を拝もうという江戸っ子が多数集まってきて一緒に永代橋を渡るとなれば、その重みで崩落する危険性は充分にありました。そこで、御船手組の同心たちが登場してくるのです。
同心たちは不動明王を載せた輿と貫首が乗った駕籠を警護するとともに、通行者の重みで橋に負担が掛からないよう通行規制を掛けました。こうして、成田山一行は何事もなく深川の地に足を踏み入れることができました。
しかし、翌4年(1807)には永代橋が通行者の重みで落橋する事故が起きます。奇しくも、開帳場の永代寺境内に鎮座する富岡八幡社の祭礼日に悲劇は起きました。
12年ぶりの祭礼日でもあった8月19日、祭礼を待ちかねた群衆が富岡八幡に向かおうと、先を争うように永代橋を渡ったため、その重さに耐えきれず崩落したのです。

深川の町

成田山一行は永代橋を渡る際、北新堀町に屋敷を構える御船手組同心たちの警護を受けましたが、御船手組同心は深川にも屋敷がありました。永代橋近くに屋敷を構えていたのです。橋のたもとには、隅田川に沿う形で幕府の船を収容する御船蔵も置かれていました。
不動明王を納める厨子を載せた輿は、再び御船手組屋敷にも入っていきます。北新堀町の御船手組同心だけでなく、永代橋近くの御船手組同心の警護も受けていたからです。
江戸の町のなかで、隅田川の東側に広がる深川は新開地でした。江戸湾に面していることもあって低湿地帯でしたが、明暦3年(1657)の大火後、急速に開発が進みます。
埋め立てが繰り返されることで市街地が次々と造成されていきます。埋め立ての過程で堀割も整備され、深川は水路が縦横に張り巡らせた市街地に変身します。その後、隅田川を越えて大名や旗本・御家人の屋敷が数多く移転してくるのです。
深川には武家屋敷のほか、商人の店舗や商品を収納する蔵も多数立ち並んでいました。この時代は水運が物流を支えていましたので、商人としては水路が縦横に走る深川に店を構えることには大きなメリットがありました。
こうして、深川は日本橋や蔵前地域と並んで江戸の富が集中する町となります。日ならずして、深川の商人たちも日本橋や蔵前商人と同じく成田山を物心両面で支えていくのです。成田講が続々と誕生していきます。
深川の開発が進む過程で移転してきたのは武家屋敷や商人の店舗だけではありません。寺院や神社も移転してきました。深川は寺町としての顔も持っていましたが、開帳場となる永代寺はその中心のような寺院でした。

永代寺

成田山一行の道中も、いよいよ終わりの時を迎えます。開帳小屋が設営されたのは、深川永代寺境内に鎮座する富岡八幡宮社殿のすぐ隣りでした。
当時、永代寺は別当寺として富岡八幡宮を管理下に置いていました。富岡八幡宮は深川八幡宮とも称され、その祭りは神田明神と山王権現の祭りとともに江戸三大祭の一つとうたわれました。
寛永4年(1627)創建と伝えられる永代寺は、深川では最大の寺域を誇る真言宗の寺院です。現在の成田山深川不動堂、富岡八幡宮そして深川公園一帯が境内地であり、寺域はゆうに6万坪を越えました。
境内や門前には参詣者を相手にした茶屋などが軒を並べ、信仰を満たすだけでなく飲食や娯楽も楽しめる繁華街となっていました。賑やかな門前町であり、現在の門前仲町という町名の語源になったほどです。
毎年3月21日から28日までの「山開」(やまびらき)の期間には、普段は公開しない境内の林泉を公開するのが恒例でした。その期間は多くの人々で賑わい、江戸の春の風物詩の一つにもなっていました。
成田山一行が永代寺に入ったのは、「七ツ時」を少し過ぎていたといいますから、午後5時を回っていました。この日の天気は快晴で、何の支障もなく開帳場に到着しています。
それから約10日後の3月1日より、開帳がはじまります。今までご紹介してきたような大掛かりな江戸入り道中の甲斐あって、成田山の出開帳は江戸中の評判となりました。開帳場はもとより、宿寺(やどでら)の永代寺門前も祭礼と見間違うほどの人で埋まりました。以後60日間にわたって、深川は成田詣の人々で賑わうのです。