1080年祭
特別コラム

開基1080年祭を記念して2015年よりはじまりました歴史家 安藤優一郎のよる連載企画。
江戸時代の成田山出開帳の足跡を辿ります。

成田不動尊 江戸出開帳を支えた人々

本船町魚河岸編

「日本橋魚市繁栄図」国安(国立国会図書館蔵)

江戸出開帳のため三泊四日の行程で深川永代寺の開帳場に入った成田山一行は、60日間にわたって江戸の人々と結縁の機会を持ちます。期間中、開帳場は祭礼と見間違うほどの人で埋まりましたが、この出開帳を物心両面で支えていたのは江戸の成田講の人たちでした。
今回から江戸出開帳を支えた江戸の成田講を12回にわたって解説していきます。
江戸の成田講には町を単位とした講中のほか、同業の商人や職人で組織された講中もありました。初回はお江戸日本橋の中心、本船町魚河岸を基盤とする魚問屋仲間が結成した成田講を御紹介しましょう。
当時の本船町とは、現在の中央区日本橋室町1丁目と日本橋本町1丁目にあたります。南には日本橋川が走り、川に面した場所に魚を荷揚げする魚河岸が置かれていました。これが日本橋の魚市場です。
江戸の本船町と言えば、魚問屋や卸商が集中する江戸随一の賑わいの場所として知られていました。文化13年(1816)の数字によれば、本船町組115軒、本船町横町組60軒、合わせて180軒近くの魚問屋が軒を並べていたということです。その活況ぶりは、浮世絵を通じて現在も偲ぶことができます。
一日に千両。現代で言うと億単位もの巨額な金が落ちた場所が、江戸には三つありました。朝に日本橋魚市場で、昼に日本橋(後に浅草)の芝居町、夜に遊廓吉原で千両ずつ落ちたと伝えられています。日本橋魚市場の活況ぶりを象徴する喩えです。
日本橋は江戸の富裕な問屋たちが住む商人町でしたが、魚問屋はその中核だったことも分かるでしょう。本船町魚河岸とは、豊かな江戸経済を支える基盤そのもの。成田山にとり、その町に店を持つ魚問屋が成田講を結成していたことは、どんなにか心強いことだったでしょう。

堀江町船持編

東都名所 永代橋全図 一立斎広重(国立国会図書館蔵)

お江戸日本橋は、埋め立てにより造成された商人町です。江戸という名前が示すように、江戸は港町でした。江戸城と城下町が拡大していくにつれて臨海部が次々と埋め立てられた結果、巨大都市江戸が誕生します。最初に造成された埋立地こそ日本橋地域でした。
幕府は海や沼地を埋め立てるともに、数多くの水路を開削しました。こうして、水路があたかも網の目のように張り巡らされ、日本橋地域は深川地域と並んで水運都市・江戸を象徴する地域となります。当時は人馬に限られていた陸運に比べ、水運には物資を大量に運送できるメリットがありました。江戸の物流の円滑化に大いに貢献していたのです。
日本橋に堀江町という町がありました。現在は中央区日本橋小舟町という町名になっています。前回取り上げた本船町魚河岸にも程近い場所です。
堀江町の由来ですが、徳川家康が江戸城に入城した際、この地を堀江六郎という漁民に与えて魚類を納入するよう命じたことにはじまります。苗字がそのまま町名になった事例です。町の規模は1260坪でした。
近隣の伊勢町や小舟町とともに日本橋の代表的な問屋街として知られた堀江町には、畳表や菅笠、雪駄、団扇などの問屋が立ち並んでいました。特に団扇問屋が町内の河岸に軒を並べたことから、堀江町の河岸は団扇河岸と呼ばれたそうです。
堀江町には問屋商人のみならず船持と呼ばれた運送業者も集住していましたが、この船持こそが、江戸の水運つまり経済を陰で支えたことはあまり気づかれていないかもしれません。しかし、流通を担う船持たちの活躍なくして、江戸の繁栄はありませんでした。江戸の繁栄をもたらしたのは富裕な問屋商人だけではなかったのです。
この堀江町に住む船持たちも、「堀江町船持講」と名付けられた成田講を結成していました。船持たちは江戸経済のみならず、成田山も支えていたのです。

日本橋ろ組提挑講

「千組火消の図」歌川国芳(成田山霊光館蔵)

成田講が展開する日本橋地域は、当時日本橋川を境に南北に分けられていました。江戸の住宅地図とも言うべき「江戸切絵図」でも、「日本橋北之図」と「日本橋南之絵図」に二分割されています。「日本橋北之図」には前々回取り上げた本船町、前回取り上げた堀江町が掲載されていますが、今回取り上げるのは「日本橋南之絵図」に掲載されている町によって結成された成田講です。
「火事と喧嘩は江戸の華」というフレーズが物語るように、江戸は火災が多発した都市でした。8代将軍徳川吉宗は町奉行大岡忠相をして江戸の治安の安定に当たらせましたが、なかでも防火対策を重視します。その象徴的な施策が、「いろは四十七組」江戸町火消の結成でした。享保5年(1721)、町奉行所は隅田川以西の町を四十七組に編成し、組内の消防業務を担うよう命じます。
組の名前に採用されたのは「いろは四十七文字」でしたが、へ・ら・ひは語感が悪いとして外され、代りに百・千・万組が採用されました。隅田川以東の本所・深川地域の町については、別に十六組に分けられました。
成田山に関係する町火消は「ろ組」です。「ろ組」は元大工町、佐内町、平松町、上槇町、下槇町、箔屋町、新右衛門町から構成されており、現在で言うと中央区日本橋1~3丁目と八重洲1丁目辺り。銀行や証券会社が立ち並ぶ東京切ってのビジネス街です。
元大工町は名前のとおり大工が住んでいた町、箔屋町は箔座が置かれて打箔職人が多く住んでいた町だったことが町名の由来です。日本橋は商人町のみならず、職人町としての顔も持っていたことも分かります。
こうした日本橋の職人町から構成される町火消ろ組が、「日本橋ろ組提挑講」という名称の成田講を結成していたのです。提挑とは町火消が組の目印として掲げる提燈のことでしょう。いなせな江戸の町火消も成田山を厚く信仰していたわけです。
現在でも、山内には江戸町火消が奉納した石碑が数多く残されています。

蔵前護摩講

助六所縁江戸桜の主人公 花川戸助六

成田山が日本橋の町によって支えられていることを3回にわたって御紹介してきましたが、もちろん成田講は日本橋だけに展開していたのではありません。日本橋と並んで富裕な商人が集住する隅田川縁の蔵前地域(現台東区蔵前)にも、成田講は深く根を下ろしていました。今回取り上げるのは、その一つ「蔵前護摩講」です。
この辺りには、かつて隅田川に沿う形で蔵前の名称のゆかりとなる幕府の米蔵(「浅草御蔵」)が林立していました。幕臣は俸禄米の支給を受けるため、米蔵まで出向くのが決まりしでしたが、やがて札差と呼ばれた商人に換金業務を委託するようになります。
札差はその手数料を受け取ったわけですが、俸禄米を担保として幕臣相手に貸金業もはじめます。この高利な貸金業によって、札差は巨利を挙げることとなります。蔵前は日本橋と同じく商人町でしたが、蔵前商人と言えば札差がその代名詞となっていたほどです。その豪勢な生活ぶりが注目を浴びたのです。
歌舞伎十八番の一つ「助六所縁江戸桜」の主人公助六に喩えられるほどの札差もいました。「蔵前の今助六」の異名を取った大口屋治兵衛です。大口屋は黒小袖を着て、鮫鞘の刀を帯び、下駄履で大門をくぐり、毎晩のように吉原で豪遊を繰り返したと伝えられます。こうした派手な身なりは歌舞伎役者を真似たもので、大口屋が今助六と呼ばれた理由になりました。札差の裕福さも良く分かります。
江戸出開帳の際も、そんな蔵前の札差宅に成田山一行は立ち寄っています。成田山を物心両面で支えていた、江戸の有力な檀信徒たちに他なりませんでした。
今回取り上げる蔵前護摩講とは、札差に代表される蔵前商人が成田山に護摩を御願いすることを名目に結成された講でしょう。成田山への厚い信仰心を核に蔵前商人が団結・結集していたわけです。 蔵前護摩講とは、江戸の富の象徴である蔵前商人と成田山の強い結びつきをうかがわせる講なのです。

浅草御蔵前旅籠町菓子屋講中

『講中記』(文政4年)に掲載された「浅草御蔵前旅籠町菓子屋講中」の記事
(成田山霊光館所蔵)

成田山への信仰心を核に蔵前地域では札差が講を結成しましたが、札差のような豪商だけではありません。お菓子屋も成田講を結成していました。今回は、「浅草御蔵前旅籠町菓子屋講中」を取り上げましょう。
札差は蔵前地域のうち森田町、片町、天王町に店舗を構えていましたが、森田町の隣に元旅籠町という町がありました。かつて旅籠屋があったことが町名の由来です。その後、様々な業種の商店が店舗を構えるようになりました。
文政七年(一八二四)に『江戸買物独案内』という版本が出版されて好評を博しました。この書籍は江戸の商人・職人の名前が記された業種別の名鑑です。江戸に不案内の者でも、この名鑑を操ればどこにどんな店があるかを探せる仕組みになっていました。
菓子屋の項をみると、元旅籠町に店を構える「菓子所よもんや八右衛門」が紹介されています。「幕の内おこし」を扱っていたそうですが、菓子屋が多かったのが浅草御蔵前の旅籠町の特徴でした。
お菓子は、日本橋などの商人町では結構需要がありました。言うまでもなく、商談などの際の接待で御茶菓子が必要不可欠だったからです。こうして、日本橋の大店出入りの菓子屋が軒を並べることとなります。
日本橋の場合、出入り先とは大店だけではありません。日本橋本石町に店を構えた金沢丹後掾という菓子屋は江戸でも屈指の大店で、江戸城のほか寛永寺・増上寺にも出入りしていました。将軍の御台所が両寺に参詣する際には、なんと四万から五万個の饅頭の注文が入ったそうです。江戸における和菓子マーケットの巨大さが分かります。
日本橋と同じく商人町だった蔵前地域の場合は、旅籠町に菓子屋が集まっていました。札差などに出入りして菓子を納めたわけですが、札差が成田山の有力な檀信徒だったことを踏まえて、菓子屋も成田講を結成したのではないでしょうか。
「浅草御蔵前旅籠町菓子屋講中」も、蔵前商人と成田山の強い結び付きを物語る講なのです。

新吉原御神酒講

「成田山開帳参詣群集図(一部)」新吉原講中の看板か繧剳`かれている(成田山霊光館蔵)

蔵前地域に隣接する浅草地域は、江戸一番の繁華街でした。浅草寺境内を中心に浅草が賑わっているのは今も江戸も変わりはありませんが、その賑わいに大きく貢献していた施設がありました。
幕府が江戸で唯一公認した遊郭の吉原です。この吉原にも成田講が根を下ろしていました。今回取り上げるのは「新吉原御神酒講」という成田講です。
吉原の歴史を御紹介していきましょう。
当初、吉原は葺屋町にありました。現在の中央区日本橋芳町・堀留町に当たります。この時の吉原は元吉原と呼ばれますが、明暦二年(一六五六)に幕府は浅草寺裏への移転を命じます。江戸の中心部に吉原があると、社会風紀上宜しくないと判断されてしまったわけです。
翌三年(一六五七)の明暦の大火後に、吉原は浅草寺裏手、現在の台東区千束に移転しました。これを新吉原と呼びます。一般に吉原と言えば、新吉原を指します。
江戸出開帳の際、成田山一行は吉原に立ち寄るのが恒例となっていました。吉原が成田山を物心両面で大きく支えていたことを物語る行動と言えるでしょう。例えば幕末に当たる安政期、成田山は本堂(現釈迦堂)の建立に際して、吉原の成田講から多額の奉納を受けています。
「新吉原御神酒講」とは、吉原遊廓の主人たちが不動明王にお供えする御神酒を奉納することを名目に結成した講中でした。御神酒以外の名目で結成された講中も幾つもあったことでしょう。
浅草とともに江戸の繁栄を象徴する吉原の女性たちも、成田山を支えていたのです。

深川八幡前大工絵馬講

(国立国会図書館蔵)

日本橋そして浅草・蔵前と、江戸の富裕な商人町が成田山を支えた様子を見てきましたが、成田講は隅田川東岸にあたる本所(現墨田区)・深川地域(現江東区)にも展開していました。本所・深川は明暦の大火後、一気に開発が進んだ新興の地域です。
今回は本所・深川地域の成田講のうち、「深川八幡前大工絵馬講」を御紹介しましょう。
深川八幡とは現在の富岡八幡宮のことです。江戸勧進相撲発祥の地で、当時境内では本場所も興行されました。ただし、江戸の頃は数万坪にも及ぶ永代寺の境内に取り込まれた形でした。永代寺が別当として八幡宮を管轄したのです。
深川(富岡)八幡宮前には門前町が広がっていましたが、参詣客相手に飲食を提供する料理屋や茶店だけでなく職人も店を構えました。八幡宮に出入りして建物の修復などを請け負ったのです。
つまり、彼らは出入り職人でした。富岡八幡宮だけでなく、別当寺の永代寺にも出入りしたことでしょう。
一口に職人と言ってもバラエティに富むわけですが、何と言っても大工は花形の職人でした。そして、八幡宮の門前で店を構える大工たちにより結成された講中がこの「深川八幡前大工絵馬講」なのです。
成田山が江戸出開帳する時の会場は永代寺でしたが、実際に開帳小屋が立てられたのは富岡八幡宮の社殿近くです。木造の小屋が臨時に造られましたが、その建築にも携わったに違いありません。
「深川八幡前大工絵馬講」という名称からは、絵馬の奉納を目的に講を結成していたことが分かります。成田山には江戸の成田講から絵馬が数多く奉納されましたが、富岡八幡宮門前の大工たちの奉納絵馬もその一つだったのです。

本所深川紙屑屋仲間講

江戸の商人を描いた「今様見立士農工商之内商人」歌川豊国(国立国会図書館蔵)

本所・深川地域は日本橋地域と同じく百万都市江戸を支える商人町の顔を持っていましたが、米穀問屋や呉服問屋といった大店だけが軒を並べたのではありません。紙屑屋という小規模経営の商人たちも数多く住んでいました。
今回は「本所深川紙屑屋仲間講」という成田講を取り上げます。
紙屑屋とは、紙の買い取りを専門とする商人(業者)のことです。現代風に言うと古紙回収業者にあたりますが、当時は「紙屑買い」と呼ばれることが多かったようです。不要になった紙を買い入れ、古紙問屋に売ったのです。
古紙問屋は「紙屑買い」つまり紙屑屋から買い入れた古紙を、紙漉きの業者に卸しました。紙は主に楮から作られたわけですが、古紙も貴重な原料でした。再生紙ということになりますが、楮から作るよりも製作の費用が安上がりなのは言うまでもありません。
こうして、古紙の需要が高まるなか紙屑屋という商人が江戸に数多く生まれていきました。本所・深川地域では、同業者で仲間を結成するほどの数にのぼりました。
古紙を集めたのは「紙屑買い」だけではありません。「紙屑拾い」と呼ばれた者たちもいました。彼らは古紙を買い入れるほどの資本力を持っていなかったため、道端に落ちている紙を拾い集めて古紙問屋に売りました。それだけ、再生紙の需要は大きかったのです。
紙屑屋が買い集めて転売したのは、古紙だけではありません。不要になった着物(古着)や不要になった金属(古金)なども買い集めました。古紙に勝るとも劣らず、古着や古金の需要も大きかったからです。
江戸のリサイクル社会を支えた紙屑屋も、同業仲間単位で講を結成することで成田山を支えていたのです。

本所弘前鳶講

「加賀鳶の圖」歌川豊國(国立国会図書館蔵)

本所地域には商人や職人が住むほか、大名や旗本などの武家屋敷が点在していました。赤穂浪士たちが討ち入った本所松坂町の吉良上野介屋敷などはその象徴です。本所に屋敷を構えた大名家に出入りする人々も成田講を結成していました。
今回は、「本所弘前鳶講」を御紹介します。
幕府は大名や旗本・御家人に、拝領屋敷という形で居住する地所を下賜しましたが、大名の場合、拝領屋敷には上・中・下屋敷の三種類がありました。上屋敷は殿様が住む屋敷。中屋敷は隠居した殿様が住む屋敷。下屋敷は倉庫や別荘として用いられた屋敷です。
今回登場する外様大名の津軽家は陸奥弘前藩十万石の藩主でしたが、上屋敷は本所にありました。殿様が住む上屋敷は江戸城に近い場所で拝領するのが通例でしたから、本所に上屋敷があった弘前藩は珍しい事例です。上屋敷が本所にあったためか、弘前藩は中屋敷や下屋敷も本所で拝領しています。
本所の屋敷には商人のほか、鳶職人も出入りしました。職人として大工仕事をするほか、火事の際には火消人足として屋敷に駆け付けることになっていました。「本所弘前鳶」とは、弘前藩に出入りする鳶(火消)人足のことなのです。
火消人足と言えば、江戸の各町の消防にあたった町火消が良く知られています。本所・深川にも十六組の町火消が置かれましたが、本所に屋敷があった弘前藩に出入りした「本所弘前鳶」は別組織です。
これは大名火消と呼ばれ、大名屋敷の消防に当たりました。町火消との喧嘩で名を挙げた「加賀鳶」、つまり加賀藩前田家屋敷の消防にあたった火消人足が、大名火消の象徴的な存在として今も知られています。
江戸で弘前藩の消防を支えた本所の鳶人足たちも、成田講という形で成田山を支えていたわけです。

根津門前茶屋講中

広重画『江戸土産 根津権現社地紅楓』

日本橋、浅草・蔵前、本所・深川と江戸の代表的な商人町を中心に成田講をみてきましたが、寺院のみならず神社の門前にも成田山を支える人たちがいました。
今回は、「根津門前茶屋講中」を御紹介します。
現在も文京区に鎮座する根津神社は、六代将軍徳川家宣ゆかりの神社です。家宣は甲府徳川家から5代将軍綱吉の養子に入り将軍となった人物ですが、根津神社境内は同家の屋敷が置かれていた場所でした。つまり、家宣は後に根津神社境内となる甲府徳川家の別邸で生まれたのです。
そのため、家宣は将軍の座に就くことが決まると、生誕地に社殿を建てようと考えます。宝永3年(1706)には、屋敷近くに鎮座する根津神社を同所に遷座させ、産土神として厚く信仰しました。以後、根津神社は将軍ゆかりの神社として徳川家の保護を受け、境内も参詣者で賑わうこととなります。
となれば、飲食を提供する茶屋を中心に門前町が繁栄するのは今も江戸もまったく同じです。根津神社門前に広がる茶屋は大いに恩恵を受けますが、成田山への信仰も篤かったようです。「根津門前茶屋講中」という成田講が結成されていたからです。
本連載の七月分で「深川八幡前大工絵馬講」を御紹介しました。江戸出開帳の時、境内に成田不動を収める開帳小屋が建てられる由緒も相まって、富岡八幡宮出入りの大工たちは成田講を結成していました。ところが、根津神社の場合はそうした由緒とは関係なく、門前茶屋たちが成田講を結成したのです。
「根津門前茶屋講中」とは、成田山のパワーが将軍ゆかりの神社の門前にまで影響力を及ぼしたことが分かる事例なのです。

和泉橋畳屋講中

江戸の職人を紹介した「彩画職人部類. 下」(国立国会図書館蔵)

現代の住環境では洋室が和室の数を圧倒していますが、江戸時代は和室つまり畳敷が当り前でした。文化6年(1809)の数字によれば、成田山への信仰が厚かった水戸徳川家の江戸屋敷の畳の数は総計9549畳半にも達したそうです。江戸の大名屋敷の畳だけでも相当な数にのぼることは容易に想像できるでしょう。
当時、畳の需要が巨大マーケット化していたことが良く分かりますが、畳業界でも成田講は結成されていました。今回は畳屋が結成した「和泉橋畳屋講中」を御紹介します。
有力な成田講に「内陣御畳講」があります。内陣とは、成田山の僧侶が護摩祈祷時に座る畳の場所のことです。つまり、八丁堀に住む畳商人が内陣の畳の奉納を名目に結成した講中なのでした。
「内陣御畳講」は内陣の畳のほか、畳35枚分の養代・緑糸・手間代そして護摩料を毎年奉納したそうです。
巨大マーケット化していた畳業界を踏まえ、畳商人による成田講は他にもありました。その一つが「和泉橋畳屋講中」です。神田川沿いの神田和泉町に店を構える畳屋たちが結成した講中でした。日本橋が商人町であったのに対し、神田は職人町としての顔を持っていました。
「和泉橋畳屋講中」については、成田山参詣の記録も残されています。文化元年(1804)の参詣の折には金150疋を奉納しました。ちなみに、畳屋一行は菱屋という宿屋に宿泊しています。
同7年(1810)正月には御花料として金3両を奉納しましたが、以後毎年正月、5月、9月に参詣して造花を奉納したい。その願いが叶わなければ正月の奉納金で草花を備えていただきたいと申し出ています。成田山への厚い信仰ぶりが窺えます。
江戸の住空間を支えた畳屋も成田山を支えていたのです。

四ツ谷麹町料理人

広重画『江戸土産 王子料理屋河辺の宴席』(成田山霊光館蔵)

近年ユネスコから無形文化遺産に登録されたことで、和食への関心が高まっていますが、江戸時代の食が和食の大きな原型になっていることは言うまでもありません。華やかな江戸の食文化を支えた料理界も成田講を結成していました。
最終回は「四ツ谷麹町料理人」たちが結成した講中を取り上げます。
江戸経済の繁栄を背景に食文化も多様化が進み、江戸の外食産業は著しく発展します。その結果、懐の寂しい江戸っ子でも気軽に入れる蕎麦屋・鰻屋・寿司屋などが続々と生まれました。現代でも人気の和食の数々です。
外食が大衆化する一方で、その高級化も進みます。18世紀中頃より、会席料理を売り物とする高級料理店が登場したのです。日本橋浮世小路の百川、浅草山谷の八百善などが代表的な高級料理店として名を馳せました。
やがて、江戸の食文化の繁栄を示すかのように、百店以上の高級料理店を紹介する番付が相撲番付をモデルに作成されるようになります。番付だけでなく、料理店の案内書も刊行され人気を博しました。料理店への関心の高まりが窺えます。
ついには、店の差別化をはかるため、高名な料理人を雇う料理店まで現れました。一種の客寄せに他なりません。こうして、高名な料理人がいるからその料理屋に行く、つまり「誰々を食べに行く」という言葉が生まれるに至ります。
高級料理店は成田講の基盤だった日本橋、浅草・蔵前、本所・深川など江戸の富裕な商人町に集中していましたが、主要街道沿いにも店を構えました。江戸と甲府を結ぶ甲州街道沿いの四谷や麹町地域もその一つです。そして、両地域で料理店を経営する料理人たち(「四ツ谷麹町料理人」)によって成田講が結成されたのです。
地域別に成田講を結成することで、料理人たちも江戸で成田山を支える一翼を担っていました。