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江戸出開帳

第3話
桂昌院と成田山編

諸国名所百景下総国成田山境内[一部](成田山霊光館蔵)

成田山飛躍のきっかけとなった元禄の江戸出開帳の際、成田山はこれ以上ない栄誉に浴します。成田不動尊が江戸城に入ることが許されたのです。将軍徳川綱吉の母桂昌院からの懇望を受けた形でした。
桂昌院は3代将軍徳川家光の側室の一人で将軍となる綱吉を産みますが、仏教に厚く帰依した女性でもありました。寺院の新築や修復にも非常に熱心で、息子の綱吉を動かして東大寺大仏殿の再建活動を支援したのはその一例です。
その陰では、綱吉と桂昌院から厚い信頼を受ける真言宗の僧侶隆光が奔走していました。この時代、隆光の勧めにより生類憐みの令が布告され、犬が非常に大事にされたことは良く知られていますが、東大寺大仏殿再建の立役者でもあったのです。
成田山と隆光のつながりは良くわかりませんが、同じ真言宗ということもあり成田山の江戸出開帳にはたいへん好意的で、成田山と桂昌院を結びつける役割を果たします。隆光が語る成田不動尊の話に興味を示した桂昌院が礼拝を望むに至ったからです。
さすがに、桂昌院自ら開帳場に赴くことはできなかったため、成田不動尊が桂昌院のもとを訪れることになりました。貫首照範に守護された成田不動尊が桂昌院の生活する江戸城三の丸御殿に入ったのは、出開帳終了直後の元禄16年7月4日のことでした。
念願の礼拝が叶った桂昌院は成田不動尊に金品を奉納しましたが、将軍の母からの礼拝を江戸城内で受けた成田山の名前は全国に鳴り響くことになります。そうした栄誉に浴した裏では、隆光のほか成田山の領主でもある老中稲葉正通の奔走もあったと伝えられています。
江戸城に入り将軍の母からの礼拝を受けた事実は、おのづから成田山の格を高めました。江戸出開帳はもちろん、江戸城出開帳も成田山飛躍の大きな理由となったのです。
(2017年3月1日/安藤優一郎・文)

第2話
佐倉藩主堀田家と成田山編

1762年(宝暦12年)佐倉藩主堀田正順から下付された新勝寺の寺領安堵状(成田山霊光館蔵)

佐倉藩は領主の入れ替わりの激しい藩でした。稲葉家が佐倉藩主となる前、10回以上も藩主が交代していましたが、稲葉家も享保8年(1723)に山城の淀にお国替えとなります。稲葉家時代は約20年に過ぎませんでした。 代って淀藩主松平乗邑が佐倉藩主となりますが、延享3年(1746)正月にはお国替えとなり、山形藩主堀田正亮が佐倉に入ります。以後堀田家時代が長く続き、そのまま明治維新を迎えます。
堀田家が佐倉藩主時代の約120年の間に、成田山は8回にわたって江戸出開帳を執り行います。そこで、領主たる堀田家が果たした役割は非常に重要でした。
堀田家も稲葉家と同じく成田山を厚く信仰しましたが、江戸出開帳の時も支援を惜しみませんでした。出開帳を江戸で執り行うには幕府の許可が必要でしたが、十数年に一度の割合で執り行うことが幕府から許され続けた寺院は他に例をみません。
その裏では、老中をはじめ幕府要職者を輩出した譜代大名堀田家の政治力がモノを言ったはずです。そもそも、領主たる堀田家の許可を得なければ幕府に開帳を願い出ることはできませんでした。
堀田家も稲葉家の前例に習って開帳場に藩士を詰めさせましたが、成田村の村民も大勢開帳場に詰めています。出開帳の際には、成田不動尊を守護する大掛かりな行列が組まれましたが、その人数の大半は成田村の村民で占められていました。
江戸到着後は、そのまま開帳場の警備にも当たるため、三か月以上も村を留守にする形になります。これにしても、領主たる堀田家の了解なくして叶うことではありません。
佐倉藩の領民である成田村の人々も、いわば裏方として出開帳の成功に大きく貢献していたのです。
(2017年2月1日/安藤優一郎・文)

第1話
老中(佐倉藩主)稲葉正通と成田山編

広重画『成田土産道中名所 佐くらの入口かしま橋』(成田山霊光館蔵)

成田山が江戸で出開帳を執り行う時の会場は、深川にあった永代寺の境内でした。当時は永代寺境内に鎮座する形だった富岡八幡宮の社殿近くに、成田不動尊を安置する開帳小屋が建てられたのです。二カ月にわたる開帳期間中、開帳場はバラエティーに富んだ参詣者であふれ返りました。
今回から、江戸出開帳の会場を訪れた人々を12回にわたって解説していきます。

成田山が最初に江戸出開帳を執り行ったのは、元禄16年(1703)4月のことです。5代将軍徳川綱吉の治世も終わりに近づいていた頃ですが、綱吉を支えた老中の一人に稲葉正通という大名がいました。正通は3代将軍徳川家光の乳母春日局の曾孫にあたる人物です。
2年前の元禄14年(1701)6月、越後高田から下総佐倉へお国替えとなりました。佐倉藩主稲葉正通の誕生ですが、新領主として最も心掛けたのは領民の心を掴むことでした。
そのため、正通は領民たちが信仰する領内の寺社に対して、堂塔の修理や田畑の寄進をおこなっています。支援という形で崇敬心を示し、領民たちの心を掴もうとしたわけですが、なかでも成田山への支援は群を抜いていました。それだけ、成田山に対する領民からの信仰が厚かったからです。
最初の江戸出開帳の際の支援も並々ならないものがありました。これから何回かに分けてご紹介するように、成田山は将軍の母桂昌院や大名家の奥方からの篤信を得ることに成功します。こうして、開帳場には諸大名の寄進物が所狭しと並べられることとなりました。
開帳中、正通は稲葉家の家臣10名を毎日派遣し、開帳場の警備にあたらせます。正通はもちろん、家臣たちにとっても出開帳は成田不動尊との貴重な結縁の機会であり、成田山との結びつきを強く感じたことでしょう。開帳場は江戸っ子のみならず、佐倉藩からの篤信を得る場となっていました。
この元禄の江戸出開帳を機に、稲葉家では毎年正月、五月、九月の三回、成田山から護摩札を受けるのが慣例となります。出開帳の翌々年にあたる宝永2年(1705)には、成田村50石の土地を寄進しています。
成田山にとり、領主であり老中という幕府の最高権力者でもある稲葉正通からのバックアップを受けたことが大きかったのは言うまでもありません。成田山の飛躍は、元禄の江戸出開帳を通じて佐倉藩からの篤信を得たことにはじまるのです。
(2017年1月1日/安藤優一郎・文)

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