
成田山新勝寺は、天慶3年(940年)寛朝大僧正によって、開山されました。 寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の乱平定の密勅を受け、弘法大師が敬刻開 眼された不動明王を奉持し難波の津の港(現大阪府)より海路を東上して尾垂ヶ浜 (千葉県 山武郡横芝光町)に上陸、更に陸路を成田の地に至り、乱平定のため平 和祈願の護摩を奉修し成満されました。大任を果たされた大僧正は再び御尊像と ともに都へ帰ろうとしましたが不思議にも御尊像は磐石のごとく微動だにしません、 やがて「我が願いは尽くる事なし、永くこの地に留まりて無辺の衆生を利益せん」と の霊告が響きました。 これを聞いた天皇は深く感動され、国司に命じてお堂を建立し「新勝寺」の寺号を 授与し、ここに東国鎮護の霊場として「成田山」が開山されました。 |
![]() |
寛朝大僧正は、宇多天皇の皇孫で、敦実親王の二男として916 年にお生まれにな られました。幼少のころから聡明で11歳のときに出家得度されました。僧正は32歳 のときに京都仁和寺の寛空僧正より伝法潅頂を授法し、仁和寺・東大寺・東寺・西 寺などの別当、高野山の座主を歴任されました。また朱雀・円融・花山三天皇受戒 の戒師、円融・花山両天皇出家の戒師及び潅頂の阿闍梨を勤め、行基菩薩・良源 大僧正に次いで我が国3人目、真言宗初の大僧正となられました。寛朝大僧正は、 顕密の奥義を極め事相に通達し、声明をよくし東密声明道の中興と称され、殊には 雅楽に堪能であったと伝えられております。 寛朝大僧正は、不動明王に常に篤き信仰を持たれご霊徳が種々伝えられておりま すが、長徳4年(998 年)83歳で入滅されました。 |
![]() |
成田山新勝寺の御本尊不動明王は、平安の昔、瑳峨天皇の勅願により、弘法大師が一刀三礼敬虔な祈りを込めて敬刻開眼された御尊像です 成田山は、弘法大師が自ら敬刻開眼された御尊像を御本尊とし、大師が伝来され奉修された真言密教の護摩法の正系を伝えています。 しかも開山以来1070年の間、護摩供の香煙は一日たりとも絶えることなく、その輝かしい法灯を護持継承し、わが国不動尊信仰の随一祈願道 場として、数多の信仰をあつめています。その霊験利益は数限りなく、今日では年間1000万余の全国信徒の参詣をお迎えしています。
|
成田山では、大本堂での御護摩ご祈祷の際、ご信徒とご一緒に「不動明王ご真言」を お唱えしております。ご家庭におきましても、御護摩札を奉安し、朝に夕に一心にご 真言をお唱えください。 心が落ち着いて、迷いや不安な気持ちが無くなります。「祈るところ必ず霊験あり」と 申されますように、自身の目標に向けての精進努力と祈ることにより、諸々の願いが お不動さまに聞き届けられご利益をいただくことができるのです。
「激しい大いなる怒りの相(すがた)を示される不動明王よ。迷いを打ち砕きたまえ。 障りを除きたまえ。所願を成就せしめたまえ。カン マン。」 |
![]() |
この聖地は、天慶2年(939年)、寛朝大僧正がお不動さまを奉持され、難波の津より 海路を東上して上陸されました 横芝光町尾垂ケ浜の聖地です。 古来より光町有志の皆様により大切に祀守されており、昭和の初め聖地を顕彰する ため巨石が運ばれ、事業が進められ、昭和35年に記念碑が建立されました。九十九 里の景勝地の記念碑の建つ聖地では、毎年5月27日御本尊上陸聖地報恩大法会 を厳修していますが、成田山開基1060年記念事業として、海上安全と万物共生を願 い浪切り不動尊像を建立し、御本尊上陸聖地にふさわしい聖地の整備を行ないまし た。
所在地 千葉県山武郡横芝光町尾垂ヶ浜 最寄り駅 JR総武本線 横芝駅下車 タクシー又はバス利用 最寄りIC 千葉東金道路 横芝光IC
|
|
弘法大師・空海(774-835)は、宝亀(ほうき)5年6月15日、現在の香川県善通寺市に お生まれになられました。幼名は真魚といわれています。 15歳で奈良の都に上京し、18歳の時に大学に入学します。その後、31歳で留学僧と して唐に入国されます。唐の都・長安の青竜寺の恵果和尚より密教の奥義を授かり、 正統な継承者となられました。帰国された後、真言宗をお開きになり、有名な高野山 金剛峯寺の開創や京都東寺での教化といった宗教活動のほか、讃岐・満濃池の修 築や我が国で初となる門戸を一般庶民に開いた学校「綜藝種智院」の創設といった 社会活動も積極的に行われました。 そして承和(じょうわ)2年(835)3月21日、高野山で62歳のご生涯を終え、入定されま した。
|
|
興教大師・覚鑁(1095-1143)は、嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿 島市に生まれました。幼名は弥千歳麿といわれています。 20歳の時、高野山に登られましたが、当時の高野山は、雷火により伽藍が全焼、よう やく堂塔の整備がなったという状況でした。 興教大師は、鳥羽上皇の信援のもと高野山に小伝法院や大伝法院を開創、大伝法 会を開いて教学の復興に尽力されました。その後、興教大師は大伝法院の座主と 高野山金剛峯寺の座主を兼務することとなりましたが、これが、他の僧侶たちとの間 に不和をおこす原因となりました。争いの激化を避けるため、興教大師は座主を降り 、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。 その後、根来 山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月 12日、49歳で入滅されたのでした。興教大師覚鑁は、弘法大師の教えを再興すると ともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このた め真言宗中興の祖とお呼びします。 |
|
成田山新勝寺は、京都府東山七条の智積院を総本山とする真言宗智山派に属し ております。 智積院は足利時代の中頃、興教大師ゆかりの根来山内の寺院の一つとして、長 盛法印により創建された寺院です。そして、慶長(けいちょう)6年(1601)、徳川家康 により現在の京都東山に寺院を寄進され、この時智積院の能化であった玄宥(げ んゆう)僧正により再興されました。 智積院は、全国3000の末寺を擁する真言宗智山派の総本山であり、檀信徒の皆 さまの総菩提所、総祈願所となっています。
総本山 智積院 (京都市東山区東山七条) 大本山 成田山新勝寺、川崎大師平間寺(川崎市川崎区)、高尾山薬王院(八王子市高尾町) |
|
成田山には、全国に72箇寺の別院・分院・末寺・末教会・成田山教会があります。所在地など詳しくは、▼こちらをご覧下さい。 ●本 山 成田山新勝寺 ●別 院 東京別院(成田山深川不動堂) 川越別院(成田山本行院) 札幌別院(成田山新栄寺) 横浜別院(成田山延命院) 函館別院(成田山函館寺) 大阪別院(成田山明王院) 名古屋別院(成田山大聖寺) 福井別院(成田山九頭龍寺) ●分 院 12箇寺 ●末 寺 39箇寺 ●末教会 7箇寺 ●成田山教会 5箇寺 |
ご信徒皆さまからの浄財は、教育・文化・福祉等の社会奉仕に活かされています。
成田山の社会事業について詳しくは、▼こちらをご覧下さい。
大本山成田山新勝寺
〒286-0023千葉県成田市成田1番地
電話0476-22-2111 FAX0476-24-2210