成田山新勝寺

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第50回 智光小中学生 作文コンクール 入賞者発表

第50回 智光小中学生 作文コンクール
入賞者発表

本年も『智光』小中学生 作文コンクールが開催され、厳正な審査の結果、下記の通り各賞を決定いたしました。
ご応募下さいました各学校の皆様には、厚く御礼申し上げます。

最優秀作「成田山貫首賞」

課題

小学生 千葉県6年 金井 彩夏
中学生 千葉県2年 浅野 嘉恵

自由題

小学生 千葉県5年 遠山 結菜
中学生 千葉県3年 藤島 海萌

第50回特別賞

課題

小学生 千葉県5年 橋本 花梨
中学生 千葉県3年 五十嵐 渚彩

優秀作「成田山智光賞」

課題

小学生 千葉県3年 西嶋 美陽
小学生 千葉県3年 友時 昊志
中学生 千葉県2年 廣井 あいの
中学生 千葉県2年 小山 陽菜乃

自由題

小学生 千葉県4年 大津 優理子
中学生 千葉県1年 浅倉 健介

入選「成田山賞」

課題・自由題

小学生 渡邉美花奈(千葉県1年)、 大倉和夏(千葉県2年)、 栗原梨那(茨城県2年)、 庄司 雅(千葉県2年)、 阿波﨑美逢(千葉県3年)、 近藤直捷(千葉県3年)、 宮本早紀(千葉県3年)、 石毛心彩(千葉県4年)、 早川 葵(千葉県4年)、 榎心太郎(大阪府5年)、 金塚千愛樂(千葉県5年)、 平山小絵(千葉県5年)、 礒谷玲奈(千葉県6年)、 越川陽登(千葉県6年)、 相良優奈(千葉県6年)、 田中真優(茨城県6年)、 長沢佑勇(千葉県6年)、 沼田実咲希(千葉県6年)、 藤岡琉生(茨城県6年)
中学生 大西温香(大阪府1年)、 片岡拓己(大阪府1年)栗原宝子(千葉県1年)、 小山未実(千葉県1年)、 高橋奈々(千葉県1年)、 遠田絵瑠(千葉県1年)、 友菊聖梨亜(千葉県1年)、 松澤華那(千葉県1年)、 阿部萌々代(千葉県2年)、 伊藤 杏(千葉県2年)、 内山遥菜(千葉県2年)、 昆 春奈(茨城県2年)、 桜井悠里(千葉県2年)、 中村采莉(茨城県2年)、 福園和陽(千葉県2年)、 横尾 駿(東京都2年)、 魯 欣(東京都2年)、 安達有咲(千葉県3年)、 稲葉颯斗(千葉県3年)、 落合花那(茨城県3年)、 金子維吹(千葉県3年)、 木村百花(千葉県3年)、 齋藤麻帆(千葉県3年)、 佐久間羽琉(千葉県3年)、 佐藤 花(茨城県3年)、 須田有優沙(茨城県3年)、 古川 環(千葉県3年)、 武藤仁希(千葉県3年)、 本宮麻衣(千葉県3年)、 屋代美晴(茨城県3年)、 矢野雄也(千葉県3年)

千葉県 小学校6年 金井 彩夏

私の記念日

記念日について考えてみた。だけど記念日なんて思いつかない。思い当たるとすれば、自分の誕生日(誕生記念)くらい。その他はいくら考えても出てこない。

そこで、お母さんに聞いてみた。「お母さんにとって私の記念日はいつ?」するとお母さんは、母子手帳を取り出し、ペラペラめくると「いくよー」と言ってこう続けました。
・平成18年12月17日、妊娠が確認できました記念日。
・平成19年2月12日、初めての胎動記念日。
・7月17日、彩夏誕生記念日。
・10月27日、寝返りをした記念日。
・11月14日、おすわり記念日。
・12月13日、離乳食スタート記念日。

「えっ?まだあるの?」と聞くと「あるよー」と言い、お母さんは続けました。
・平成20年2月2日、はいはい記念日。
・2月5日、つかまり立ち記念日。
・2月19日、つたい歩き記念日。
・5月14日、1人で歩いた記念日。
・6月7日、自分の名前が言えた記念日。
・平成21年7月17日、おむつ卒業記念日。

「まだあるの?もういいよぉ」と言うと、「まだあるよぉ」「七五三」「はぼたん幼稚園入園」「初めての賞状」とか、まだまだあるよ。」と言い、続けて「これから大人になるまで、大人になってからも、記念日は、まだまだたくさん増えていくよ!」と言っていました。

誕生日くらいしかないと思ってた自分に、こんなにたくさんの記念日、しかもまだまだあるなんて思っていなかった。そして、はいはいをした、自分の名前が言えた、など、このような事も記念日になるんだなと思いました。大人になるまで、大人になってからは、どのような記念日ができるのか考えるのが楽しくなりました。20歳になった記念日や結婚記念日、初めてお酒を飲んだ記念日など、こんな事があるのかなーと思い、想像するとわくわくしてきます。

千葉県 中学校2年 浅野 嘉恵

毎日が記念日

記念とは、思い出となるように残しておくこと。また、何かを行って過去の出来事や人物などを思い起こし、気持ちを新たにすること。だから、この行動を起こした日は、記念日になる。今まで「記念」という言葉の意味を深く考えたことが無かった。でも、今回この作文を書くため調べたことで、私の記念日は大きく変わった。

「私の記念日」といったら、みんなは何を思い浮かべるのだろうか。やはり、誕生日や入学式、卒業式といった特別な日だろうか。もし、みんながそう考えているのであれば、私は少し変わり者かもしれない。

私は、毎日が自分の記念日だと思う。それは、同じ日が一つも無いから。晴れの日もあれば、雨の日だってある。同じ曇りの日でも雲の形が違う、色が違う、速さが違う。だから、そんな日々を、一日一日を、いつ終わってしまうか分からないこの星を、私は思い出となるように残しておきたいと思う。だから私にとって毎日は記念日になる。

もしかしたら、大袈裟だと思う人がいるかもしれない。でも、私は間近で毎日の大切さを感じたことがあった。それは、祖母の兄が亡くなってしまったことと、叔母が障害者になってしまったこと。

祖母の兄は、片目に不自由があり、かなり歳をとっていたため、数年前から隣の祖父母の家で一緒に暮らしていた。でも、去年、突然亡くなってしまった。寿命だったそうだ。

叔母の話は、つい最近のことだ。叔母は、数ヶ月前、右脳内出血で倒れてしまい、左半身麻痺になってしまった。そして、障害者になってしまった。

祖母の兄の話も、叔母の話も、どちらも突然の出来事だった。その時、私は「この毎日はあたりまえじゃないんだな」と改めて実感した。

毎日が楽しいと思える人は、そう簡単にはいないだろう。苦しい時や悲しい時は、誰にだってあるはず。でも、そんな時こそ元気を出さなくてはいけない。世の中には、もっと苦しんでいる人がたくさんいる。今、この生活があたりまえではないことを、分かってほしい。そう考えると、学校に行かせてもらえる、仕事をさせてもらえる私達は、幸せ者ではないだろうか。

毎日、一生懸命生きている自分自身の努力は、将来の自分自身の幸せに繋がると思う。だから、私は日々の反省、良いことも悪いことも、将来の自分自身のために思い出となるように残しておきたいと思う。

また、誰にでも亡き人がいるのではないかと私は思う。死んでしまった人は、誰かの思い出の中でしか生きられない。だから、亡き人のためにも毎日を思い出となるよう残す。

これが、私が毎日は記念日だと思う理由だ。

千葉県 小学校5年 遠山 結菜

魚よりプラスチックの多い海はいや

「えっ、クラゲと間ちがえてビニール袋を食べてしまうの?」これが、私の日常生活を変えていこうと思ったしょうげき的な出来事でした。

私は四年生の道徳でウミガメの生存率の低さに興味をもちました。なんと五千分の一しか大人になれないのです。それから私は、ウミガメを応えんする気持ちになり愛着をもちました。

五年生の夏休みに水族館に行った時です。私は大好きなウミガメコーナーに行きました。そこに設置されたテレビには、ウミガメが大好物のクラゲを食べている映像がありました。その横の水そうには、半とう明の小さな物が泳いでいました。私はクラゲだと思い近づいてみると、何か様子がおかしいのです。形がちがいます。触手もみあたりません。そこでガラスに書いてある文字を読んでみると、

『海にゴミが増え、ビニール袋を食べて死んでしまう問題が起こっている。』

と書いてありました。私は、おどろきすぎて文字とクラゲのようなゴミを何回も見比べてしまいました。ビニール袋は本当にクラゲのようでした。ウミガメの赤ちゃんは、様々な試練を乗り越えて、ようやく大人になったのにゴミで死んでしまうなんて、悲しみといかりがこみ上げてきました。家に帰りすぐにウミガメとゴミの関係を調べました。

調べてみると、世界の海で死んだウミガメの内ぞうを調べた所、全てのウミガメからプラスチックごみが見つかったという、調査結果がありました。(全てのウミガメからなんて。)それに、ウミガメの鼻にストローがささり、苦しそうなすがたも見ました。私は、とてもかわいそうになり、なぜ海にこんなにゴミが流れこむのかも疑問に思い、さらに調べていきました。そこには思いもしない事実が多くありました。海に流れている海洋プラスチックは世界で年間なんと八百万トンもあり、このペースで増えていくと二千五十年には、プラスチックの海になるといわれています。これらの大量のゴミは、ポイ捨てから雨で川や海に流れこんだり、処理体制の整っていない国への輸出が原因と言われています。

知らないうちに私もゴミを出してしまっているのかもと不安になりました。レジ袋・ストロー・コップなど生活の中であたり前のように使っていました。「これでは、だめだ。これからは使わないようにしよう!家族にも、友達にも伝えていこう。」と思いました。それからは、家族でエコバックを持ち歩き、便利な使い捨ての物は減らしました。ウミガメだけではなく生き物たちが、暮らしやすい環境にしていきたいです。

「魚よりプラスチックの多い海は、いや」

千葉県 中学校3年 藤島 海萌

平和への思い

一九四五年八月六日午前八時十五分頃、広島市に一発の爆弾が投下されました。たった一発、目もくらむような閃光を放ったそれはその地を一瞬で地獄へと変えてしまいました。「原子爆弾」。人類が経験したことのない、恐ろしい兵器。未だに直接の死者数は把握しきれていないと聞きます。

七四年後の同じその日、私は爆心地に近い原爆ドームの前に立ち、黙祷を捧げながら、平和の大切さをしみじみと感じました。毎年八月六日になるとテレビでも放映されていますが、やはり現地に立つと胸に迫るものがありました。平和式典で外国の方が献花の花を持ち、神妙な顔をして進行を見守っていたことも目につきました。

式典後、平和記念資料館にむかいました。雨の中、とても混雑していましたが、なんとか入ることができました。

暗いトンネルのような通路を進み、入口につくと私より少し年下ぐらいの少女の写真が飾ってありました。自宅で被災したそうで、火傷を負い、顔にガラスで切った傷にガーゼがあてられた痛々しい姿でした。

中へと進むと、被爆して亡くなられた方々の遺品が並べてありました。どれも心が痛むものばかりでしたが、中でも印象に残ったのは、二歳の男の子の穿いていたパンツでした。戦時中の不自由な時とはいえ、普通に暮らしていた生活が一瞬にして奪われた無念さ、悲しさを思い、涙が出そうになりました。その時の辛さや悲しさ、無念さといった感情が心に突き刺さるような気がしました。それには魂に訴えかけてくるものがあったのです。

戦争は悲しみしか生みません。私は広島に行き、強く感じました。今、様々な国で核兵器を保有し、兵力をちらつかせる国が増えています。その国の指導者は、一度広島を訪れて原爆がもたらす悲惨な結果がどれほどのものなのか、しっかりと感じるべきだと思います。実際に資料館を訪れて展示を見れば、原爆がどれほどひどいものだったか、核兵器がいかに非人道的なものかと改めて気づかされるはずです。実際、「こんなにひどいとは知らなかった」と言っている欧米の見学者の方もいらっしゃいました。

戦争の体験は、それがどれほどの悲劇をもたらしたかを風化させないため、そして二度と同じ過ちをくりかえさないためにも人類全体に語り継いでいかなければならないものだと私は考えます。年月が経てば体験として語り継ぐ人はいなくなってしまいますが、だからこそ原爆の被害を受けても残ることの出来た原爆ドームを、可能な限りこの先の世代にも残していくべきだろうと思うのです。

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